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ウラン・ウデ市内~レーニンとダライ・ラマとチンギス・ハンが生きる街~

シャーマンに気が焦ってしまいましたが、その前にブリヤート共和国の
首都ウラン・ウデについてご紹介しましょう。
前前々回民族や経済について少し触れましたが、街並みも面白い。
象徴はソビエト広場にあるどでかいレーニン像です。
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今風に言うと「メガ・レーニン」でしょうか。
しかも頭だけ!画像では分かりにくいかもしれませんが頭部は高さ7.7m。
台座が6.3mあるので迫力あります。重さは42トン!!
というか、首根っこだけでよく立っているな・・という感じです。

チンギス・ハンの像はないのですがここで知り合った人にチンギスという名前の方がいました。
例えばここではおじいさんはウクライナ人、おばあさんはブリヤート人だったお母さんとロシア人
のお父さんから生まれましたという人は多い。それはロシア全土に渡って言えることでしょう。
チンギスは見た目はロシア人。珍しい名前だということでしたが、モンゴル民族でもあるという
意思と誇りを感じます。

メガ・レーニンのあるソビエト広場の周りは政府や市の行政関係の建物がぐるり。
中には日本人抑留者が建築に携わった建物も少なくなく近年老朽化のため
解体工事をしようとしたところ、日本人が建てたものはあまりにも頑丈で
解体に時間がかかったそうです。さすが、そんな時も仕事が丁寧な日本人。
日本の誇りですね、偲ばれます。

通りを歩いているとソビエト時代有名だったバレエダンサー像が。
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よく見ると顔立ちがブリヤート人!ここはブリヤート、当たり前なのだろうけど
いつもロシアでよく見るバレエ像とはまったく違うその風格に見とれてしまいました。

ちょっと歩くとモンゴルの帽子!そう、あれはウラン・ウデにあるモンゴル大使館。
「いいね!」あげたくなりました。
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世界には国境近くで多くの紛争が起こっている。
ここは互いの文化も習慣も民族も認め合い、いいところを取り入れて共存している。
たまに起こる紛争といえばブリヤート人がロシア人の彼女を奪った!奪わない!で
ブリヤート対ロシアの民族紛争に繋がるそうだが・・・しょ~もなッ。
いつまでも平和な国であれ。

よっしゃ、次はシャーマンに行けるかな・・・シベリア紀行つづく・・・



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ロシアの中のチベット仏教

ブリヤートにはチベット仏教寺院イヴォルギンスキー・ダツァンがある。
イヴォルギンスキーとはブリヤート共和国の首都ウラン・ウデから23km
離れたイヴォルガ村のこと、ダツァンとは寺院のことです。
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宗教の自由がなかったソビエト時代の弾圧で多くの寺院は破壊され
ラマ(僧)は殺されたけれど、地下活動など屈せず今に息づいている。
1992年にダライ・ラマ14世がこの地を訪問してからは教徒の勢いもあり
新しい寺院建立、資料館の建設が活発に行われている。
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資料館の中はまだ製作中のラマの像がいくつかあった。
若い僧侶や信者の手作り。

マニ車の中には経文が書かれていて、回した数だけ教を唱えた徳がある。
中には身長をはるかに超えるものもあり回すのも結構大変。
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この村は道はあるけど「通り」がなく住居の区画がない。
なぜなら家を建てるときはラマに相談しラマの指示通りの
位置(土地)に家を建てるそう。
ただそれでいいなと思う風景なのです。
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それぞれの信仰がぶつかることなく寄り添っている、そんな感じを受けます。
シベリアにはもうひとつ大切な信仰があります。
シャーマニズムです。次回ご紹介いたしましょう・・・。
シベリア紀行つづく~。

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ブリヤート・無形文化遺産セメイスキエ

ブリヤートにはロシア正教の宗教改革を拒み伝統的な儀式を守り続ける古儀式派セメイスキエ
が存在します。彼らの伝統的な習慣や文化は2001年UNESCOの無形文化遺産に登録されています。
私が訪問したのは300年も続くタルバガタイ村。(タルバガタイと名づけられたのは75年前)

まずはその土地の文化を知るということで資料館へ。
古いサモワールや鏡、商人の秤など・・・独特なものとして部屋の中や家の塀などの壁画は
鳥や植物など自然をモチーフに色鮮やかに描かれている。
これらはその家主たちがそれぞれ描いてきたものらしい。みんな絵心あるんですね~。
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村の本陣、ロシア正教会。宗教改革を拒んできたので儀式は昔のまま、考えはより
ギリシャ正教に近いそうです。
布教活動などは一切しない。
なぜならこの考えを支持するものは自然と世界から集まってくるからだそうです。
彼らは宗教とはそういうものだと感じている、これも古儀式派の理念なのでしょう。
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セメイスキエの民族衣装を着たご婦人たちのお・も・て・な・し!
「ようこそ!タルバガタイへ」
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最初のお・も・て・な・しはお料理。基本的にロシア料理ですが、このご婦人はかなりの料理上手ゥ~!
蜂蜜を発酵させたメドブーハ(手前のコップ)はこれまでロシアで飲んだ中で一番美味しかった!
バイカル湖のオームリを使った「魚のパン」(中央)臭みもなく香ばしい。
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豚の脂肪を塩漬けにし燻した「サーロ」
一見気持ちが悪い!?かもしれませんがこれは最高に美味しいのです!!
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食後のお・も・て・な・しは素敵な庭での伝統的な歌と踊り♪
結婚式の歌は「式で初めて会う相手。裕福な家庭の人を望んでいたけど、とても貧しい人だった。
悲しくて涙が出るけれど、その人は心優しくて、幸せになれるかも・・・」といった内容。
とても現実的でまったく涙が出る!結婚式で歌うか?と思うけれどユーモアも含め
ここの人たちは明るい。今でも結婚式は1週間お祝いが続くそう。
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ロシアの民族衣装は基本的に白地に赤い刺繍のものが多いのですが
この地方はチベット教の影響を受けて極彩色を何枚も重ねた鮮やかで独特なものです。

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南はモンゴルへ、西はバイカルへ流れるセレンガ川。
昔ながらの生活を守り続けるセメイスキエの源。
ずっとずっとこの景色が変わらないことを願います。

まだまだ続くシベリア紀行・・・



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ブリヤート料理

イルクーツクからシベリア鉄道に乗りタイガの森をバイカル湖に沿って抜けると
約8時間でブリヤート共和国の中心都市ウラン・ウデに到着します。
鉄道の途中いくつもの小さな駅を通過しますが、駅舎が青色に染まっていく。
その様はだんだんとブリヤートに近づいていることを教えてくれているのです。

ブリヤート人は世界でも一番日本人とDNAが近いと言われています。
知らない街で道行く人にも親しみを感じる。
ただ数世紀、穀物を中心に生きた者と肉を中心に生きた者は明らかに
違いが出てくることをこの目で感じてしまったのです。
ブリヤート人は体格、特に骨格が太く、手が大きい!あごもしっかりとしていて
「先祖代々ちゃんと噛んでま~す!」といった顔立ちだ。

ブリヤート原住民が住むアルヴィジィル村に行き、ブリヤート人のお宅で
ブリヤート料理を頂くことになりました。
「ようこそ、ブリヤートへ」とまずはウェルカム・チャイ!
甘みのないさっぱりしたチャイは到着後の一杯には最高!です。
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もともとブリヤートの住宅はゲルでしたが、ロシア文化の影響や
厳しすぎるロシアの気候もあり、木製のゲルを立てるようになったそうです。
ウラン・ウデの中心地ではゲルを見ることはほとんどありません。
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ブリヤート料理で欠かせないのは「ポゥーズゥ」。
これは小ぶりの肉まんにスープの入った小龍包のようなもの。
モンゴルでは中は羊の肉ですがブリヤートでは牛肉が主のようです。
ここでは「一緒に包みましょう~♪」ということで十数年ぶりに餃子の皮包みをしました。
手前の最後ひねっとけばそれなりになるか!っぽいのが私の作品・・・。
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驚いたのはこの「サマラート」という料理。付け出しのようなものでパンなどに乗せて食べるそうです。
簡単に言うとサワークリームと小麦粉を混ぜて茹でたものだそうですが
この料理も家庭により大きく味が違います。途中ドライブインの「サマラート」は一口戴いた瞬間
ブリヤートには住めないと思うほどでしたが、ここで戴いた「サマラート」はほんのり甘く
クリーミーでとっても美味しかった◎やっぱDNA近いじゃ~ん♪と豹変することができました。
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「シュルン」という麺入りスープ。出汁の味もアジア人好み!西ロシアでは一般にはない出汁です。
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ダライ・ラマがこの村に来たときに「作りなさい」といったお酒「アムリ-タ」。
松のウオッカで香りが独特、きついお酒ですが、くせが返って美味しい。
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シベリア紀行つづく・・・






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東シベリアの旅

この夏、かなてから念願だった東シベリアに行ってきました。
中世ロシアの趣きを残すイルクーツクから神秘の湖,バイカル湖を抜け
宗教も人種も異なるブリヤート共和国へ、その文化の違いの流れを
この目で見たかったのです。

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バイカル湖を挟んでイルクーツクとブリヤートがあります。

出発前から数少ない資料を集めましたが、実際は情報よりも時の流れは
速く日々変化するシベリアでした。
人種の比率はブリヤート共和国ウラン・ウデ市ではロシア人50%、ブリヤート人50%ですが
ロシア人とブリヤート人の結婚も多くなり混血が増えてきているということです。
経済発展は著しく、建設ラッシュ。物価も他のロシア各地に比べ高いという印象でした。
イルクーツク市の地価はモスクワ、サンクトペテルブルグに次ぐ3番目に位置しており、
シベリアという地域を考えると何かメリットがあるのか?と不思議でしたが・・・
中国の経済発展の流れでモンゴルは経済成長率世界3位となり、モンゴルと
密な東シベリア地区も勢いに乗っている!?のかと思います。
ブリヤート共和国はモンゴルととても友好国でVISAは1時間程度で発行してくれるそう。
ウランバートルまでは車で5~6時間なので人の流れも物流もとても盛んなようでした。

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ロシアの文化とは異なる独特のブリヤート。

とにかく日本車が多く、通りだけを見ていると「ホンダ、トヨタ、ホンダ、ニッサン・・・」
モスクワの比ではありません。中古車なので「愛羅武勇」とか「夜露死苦」的な文句を
書いたものもそのまま使われており、事実を知らないことを願うばかりです。

シベリア紀行つづく・・・

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ロモノーソフ陶磁器工房でマイカップ

ロモノーソフ陶磁器工房へはこの10年間何度も足を運びました。
掘っ建て小屋のようだった工場直営のショップは今や博物館までできました。
途中経営者入れ替えもあり名前も変わったりもしたけれどやはり「ロモノーソフ」という
響きが一番ぴったり合っている気がします。
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そこでマイカップを作ることもできます。
まずは好きなスタイルのカップをチョイス。
次に絵付けをどのようなものにするか・・・私は一番好きな鳥の文様。
あらかじめ切り抜いたパターンをカップに当て炭でパターンを写していく。
絵付けの色はちょっと古めかしい仕上がりにしたかったので茶や深いオレンジ、
深い緑色などなどを作り、いぶし銀の出来栄えを想像してわくわくしながらペン先に集中。
金属製のつけペンで絵の具を陶磁器に盛っていくのだが…これがなかなか難しい!

言葉が通じなくても大丈夫。
私 : 「これってテンテンすればいいのですか?」とテンテンするジェスチャー。
先生 : 「そう、テンテンよ~」とテンテンするジェスチャー。
工房って大好き。言葉が通じなくても、見て、作業して心が通じる。
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1年後再び工房へ行きマイカップを頂きました。
盛った絵の具は焼き上がると変化するのでいぶし銀というより
ラブリ~でファンシ~で、でもワンダホ~でした。
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タチアナ・ニクーリンに会って

私は「小さい逃亡者」の映画を語れる生き証人に会いたかった。
当時の思い出やエピソードをどうしても聞きたかった。
この映画に携わっている人なら誰でもよかった。
特にロシアでの撮影に参加している人に・・・その当時のロシア、
ロシア人との仕事、ふれあいなどを聞きたかった。
となると日本人ではとても限られていた。
主役の少年はこの撮影後ウルトラマンなどの特撮映画に参加し
わずか数年で引退していた。一般人なのでもちろんその後は分からなかった。
ロシアの俳優、スタッフを探すことにした。
大好きなユーリー・ニクーリンは他界している。監督もスタッフも。
若いスタッフの中では映画界を辞め今はどこで何をしているのか分からないという人も多い。

タチアナ・ニクーリンはユーリー・ニクーリンの奥様でこの映画にも一緒に出ている。
ユーリー亡き後サーカス団の団長でもある彼の息子を通じ、タチアナさんに会えるよう
お願いをした。タチアナさんは83歳。「体調もすぐれないからわざわざ日本から来てもらっても
会うことができないかもしれない。」とも言われたけれど、1%でも可能性があるならとモスクワへ向かった。

劇場の上階にある社長室に通された。
そこで迎えてくれたのは凛とした姿勢と笑顔が素敵な女優だった。
「体調の悪い83歳」を想像していたので彼女がタチアナ・ニクーリンであることにしばらく時間がかかった。
「ようこそ!」と手を差し伸べてくれ「さて、何から話したらいいかしら~」と映画の思い出から恋愛話まで
次々と話してくれた。主役の少年のことは本名の「チハル」と呼んでいた。
映画の仕事というよりは自分の息子より2歳年上のチハルがかわいくてたまらなかったようだ。
チハルが撮影中サリャンカの食べすぎで10Kg太ったこと、
チハルが台詞を間違え悔しくてカーテンの陰で涙を流したこと、
ニクーリン家でホームパーティーをしたときに息子とチハルは言葉も分からないのに
仲良く遊んでいたことなど・・・目を細め話してくれた。
表情、口調すべてがエンターティナーだった。
タチアナさんの取材を終えた後、隣室で聞いていたマネージャーは
「あなたが来る寸前まで
『何を話せばいいの、私は46年も前のことなど覚えていないわ・・・どうしよう・・・』
とタチアナはずっと言っていたのよ。私も恋愛話を初めて聞いたわ~。」と驚いていた。
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この世界で生きてきた人は自分の見せ方が違う。
一瞬にして幕が上がるのかもしれない。

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ソビエト映画を好きなわけ

もともと私はソビエト映画が好きでした。
同じ風景をジジジ~~~~~~っとためらうことなく映し出し
展開の遅いストーリー、沈黙の長い間、でもその中に観る者が
それぞれ何かを感じ得るものがある気がします。
ハリウッド映画に比べ同じ120分でも時間の流れ方が3倍くらい遅く感じます。
誰かが死んで誰かが勝つというようなはっきりしたものではなく
これから先この人たちはどうやって生きていくのだろう、幸せになるのか、、、
不安のままのあいまいな終わり方。それもやはり、その先は観た者に想像させ
より考えさせる作品が多いのです。

世相を反映したものが多いソビエト映画。
特に1960年代は戦争を背景にしたものが多く、戦場よりもその影で
寂しさや悲しみを背負う人たちの姿を描いたものが印象的です。
その中で生きる強さや楽しみを見つけていくので当時の人々は映画という
娯楽が何よりも楽しみだった。映画の黄金時代です。

今、私がソビエト映画を観ても同じことを感じます。
特に生きていくための強さ。

疲れたらソビエト映画か「かもめ食堂」をよく観ます。

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ロシア映画大学資料室には古いポスターがぎっちり貼られているました。

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「小さい逃亡者」~魅力を感じたもう一つの理由~

1966年に制作されその年の晩秋に何かの作品の併映として(確信たる記事、資料がない)、
翌年「ガメラ」との併映で公開されました。私のお店に来るお客様の中に数人「小さい頃、マトリョーシカ
にお願いをしながら男の子が旅をする映画があったけれど…」とうっすらながら覚えていらっしゃる方が
いました。皆さん、不思議なことに当時10歳前後。よく調べてみるとこの作品は教材指定映画として
小学校で鑑賞されたようです。ただそれ以降の公開がなく、「葬られた」作品となってしまったのには
何か理由がある気がしました。時代も時代。社会主義国との親睦の証に社会的な力が加わったか、
世論を避けるための対策か、それを考えるとたまらなく興味が増してきてしまったのです。

もちろんこの問題はどこにも資料はありません。
当時この作品に関わった人の中でもごくわずかな人しか知りえなかったことかもしれません。
今回ロシアで取材をしたロシア映画大学のルィビン教授(当時副カメラマン)は
「当時そのようなことはどこの国でもありえたことでしょう。」と話していました。
彼はこの映画に関係する人物、情報を知る人物を探すため、大学の先生を集め
手当たり次第電話をしてくれました。
でも日本とソビエトの合作に至った背景の鍵を握る人物は誰にも分かりませんでした。

謎。理想的です。



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1966年日ソ合作映画「小さい逃亡者」~上映会に至るまで~

2012年12月2日「小さい逃亡者」を上映するまでにいろいろな山があり、それはひとりでは
決して乗り越えることができないことばかりでたくさんの方に助けてもらいました。
そしてこの映画がなければ決して会えなかった人にも会うことができました。日本でもロシアでも。
正直お金はかかりましたが、貯金を使い果たしても、会えてよかった、上映できてよかったと思える
経験をしました。

ブログで少しずつ綴っていきたいと思います。

「小さい逃亡者」は1966年日ソ合作映画。私がこの映画を知ったのは2007年頃。ロシア人の友人の
映画好きの母親のおかげ。彼女は民芸の仕事をしている私に民芸色の濃い作品やマトリョーシカが
出てくる映画をいろいろと教えてくれました。中でも「小さい逃亡者」はあまりにも印象に残り日ソ合作
でありながら今までなぜ知らなかったのか悔しいくらいでした。
日本に帰り探してはみたものの・・・確かな情報がなく、簡単には見ることができないということだけ
分かりました。映画の内容はもちろん、監督からスタッフ、出演者に至るまで超一流。それだけでも
話題になる映画のはずなのに。と思いつつ、時は流れてしまっていました。

気が付けば早5年。「テープ探そう」とふと思いつき、日ソ合作の日本側「大映映画」に連絡をしてみる
ことにしました。この時初めて「大映」が解散していることを知りました。私はその程度の映画に関する
知識です。慌てて「大映」作品のその後を調べるため、頭に浮かぶいろいろな組織に電話をしました。
意外にもテープはあっさりありました、が、それは字幕もなく赤茶けた最悪の画面。フィルムというのは
回して空気に触れさせなければ傷みも進むらしいのです。他に2本同じフィルムを探してもらい、うち
1本は字幕なし。残り一本は南極基地で使用したものでこういった厳しい環境で保管されたフィルムは
ほぼ壊滅状態とのことでした。ただもう後がない!1%でも希望があれば…ということで3本とも送って
もらい試写をしました。字幕入りの南極仕様フィルムは奇跡を起こしてくれました。今回上映会で使用
したのもこの1本です。
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